※露骨な性描写があり、映画『時をかける少女』のネタバレを含みます















性欲、愛欲、性愛、欲情、それらは全て死語になった。かろうじて「性交」ただそれだけは残っている世界を、果たして想像できるだろうか。



ベッドでうつむく。目を閉じてまるでそれは瞑想のようにする。何しろ自分の時代にはこういったことはほとんど意味をなさなくなっていた。自分の場合は特にだ。性欲とは何だろうか?その後に吐き出されるものは?ティッシュで尖端をくるむと染みていく何か、その中の自分には欠けた、足りない何かを俺は欲している。




「なあちょっと、千昭」「何、」「ちょっと来て」
休み時間の終わりに、人目をはばかるように功介に廊下に呼ばれ、目を見ると次サボるぞと言っている。一番最後の生徒がロッカーから乱暴に取り出した教科書を手にばたばたと教室へ駆け込みこちらも見ずに引き戸をがたんと閉めた。その反動で少しだけ隙間ができた教室の後ろの扉から、窓際に近い席が二つ空いているのが見えた。俺たちのだ。教科書を置いてそのまま出てきてしまった。

「どこがいい」「屋上」「ありきたりだな」「しかも今閉鎖されてるし」「トイレ」「汚ねえ」「じゃどこよ」「なんか倉庫とか」「準備室でよくねえ?理科系の」「今誰もいねえかな」「化学準備室の鍵は甘いよ割と」「決まり」

高3で転校してきたことになってるのでこの割と広い学校のつくりとかどのルートが人通りが少ないかとか俺はよく知らない。功介に手をひかれる。振り払って眉をひそめていると、仕方ないという顔で苦笑された。俺はこの功介という人間が怖い。こうして一緒にいるのも怖いものみたさなんじゃないかと自分では思う。教室移動もあらかた終わり、廊下はひっそりと静かで、全く何も音がしないというわけではないけれど、この喧噪が遠い感じに俺は弱い。功介がその静けさにあわせるように、耳もとでささやくように言う。確かに大声で言う内容ではない。

「俺、今朝さオナんの忘れてきちゃった」「……」「千昭ぬいてよ」「何で俺なの」「ウマいじゃんお前」「何で俺がなめなきゃなんねーんだよ」「なめてとか言ってねーだろ」「……」「なめんの好きな癖に」「好きじゃねーよ」

騙された、と気づいたのは最初の直後だった。いつもの朝の掛け合いの中でだが、そもそも俺が発端だった。「功介お前朝早すぎなんだよちゃんとオナってきたのか?」笑いながら言うと功介がまじめな顔で「んだよやっぱバレた?後でお前抜いてよ千昭」と返すから、「いいよあとでトイレ集合な」と笑いながらまた返したのだった。(さすがに真琴に「あんたらバカ言ってんじゃないわよ」と怒鳴られた)そこまでは俺も冗談のつもりで、功介もそのつもりだったんだと思う。ただその後、そんな冗談を飛ばしたことも忘れた昼休み頃に功介が「なあちょっと、千昭」、これだ。最初もこれだった。いつもヤりたいときの台詞は同じだ。「ホントに抜いてくれんの?」「は?」「俺たち友達だよな」「あー…そうだな、」「それなら」(俺は迷った。この頃の性習慣とは一般的にどういったものだったんだろう。男子高校生は友達同士で休み時間に抜くのか?そんなことこの時代に飛ぶ前に読んだどの書物にも書いてなかった。まったく分からない。見当もつかない)あれは冗談だったのか?どこまで冗談だったんだろうか。恐らく冗談だっただろう。そう思いたい。その証拠に終わった後功介は驚いていたのだ。「……千昭お前そっちの気あんのか?」「は?何言ってんの」「今飲んだだろ」「飲んだけど」「つーかふつうなめねえよ」(…なめさせといてなんだよてめーは!!)功介の出した後のまじめぶった優等生みたいな顔に俺は自分の失敗に気づいたのだった。つーか俺も早く気づけって。喉が苦い。

しかしながら功介は俺が違う時代の人間でこの時代の常識が分かんなくて、だから間違えて自分とこういった行為に至ったとは思いもつかないようだった。(普通そんなことは考えない)じゃあ何を思って俺にこんな幼稚な性行為を続けてさせているのか。(こんな自分でもできることセックスなどとは呼ばないだろう。所詮オナニーの代わりだ)


「じゃあなんで千昭はなめてくれんの」最近性欲に満ちた眼というのが分かるようになってきた。功介の眼にうっすら光がたまる。涙ではないもう少しねばっこい感じの光が眼の下瞼のすぐ上にたまっているのだ。俺は不思議だ。どうして功介のような、理性が服を着て歩いているような、それでいて裏表のなさそうな優等生、好青年、それがこんな風に人を幼稚なセックスに誘惑するのか。そしてそれが俺をこんな行為に導くのか。俺は性器をなめたまま眼を閉じさせられる。世界が口腔と自分の身体とその外側にきれいに3つに分かれる。きちんと掃除されない化学準備室のリノリウムの床はこれもねばっこくてあまりきれいなものではない。居るとバレてはいけないからもちろん電気もつけない。窓も開けないから風も通らない。誰にも見られないのが分かってて俺は随分大胆に咬える。功介の手が俺の頭に置かれる重み、指で何かを探すように掬われる髪の毛にまで神経が通っているように感じる。指が多足の動物が歩くみたいに俺の頭蓋を這う。耳の裏を指のはらでなでられて熱くなる。功介はイくとき何も言わない。俺も何も言わないでそれを飲む。これは何だ?俺は何をやってるんだ?


「ていうか俺がなめて果たして気持ちいのお前は」「気持ちいいよ、やってやろうか」絶対やる気がない癖に功介はこういうことを言う。「俺はいいよ」「何で」「お前じゃたたねえっての、」「立てる?」ひざまずいていたところ手首を掴まれて立つようにうながされる。たぶんすごく気持ちいいだろう。あたたかくてやわらかい口腔、少なくとも俺のは絶対に気持ちいいはずだ。しかし俺の眼に功介のあの光のような性欲はたまらない。俺は不能者だ。


「不妊の可能性があります」「……え?」「精子の数が足りない」
顕微鏡から顔を上げた病理医は眼をあわせようとしない。俺はつい先刻出したばかりの精液の色を思い出そうとした。半世紀以上前から機械で精子を測れるのに、最近は大時代にも人間の眼で数える。否定しようがない。俺の家系では何代か前から不妊の男が増えていた。いや、俺の家系に限った話ではない。国内での男性不妊は10人に3人とも言われる。男の精液は昔に比べどんどん薄くなり精子が少ないし大部分死んでるし泳がないし奇形を持つようになっている。俺もそのうちの一人だというわけだ。大部分の男は誰にもこのことを打ち明けない。その統計だけが報告され、セックスなしでの、精子と卵子が出会うだけの妊娠がひっそりと試験管で行われる。



「千昭」「何」「ほんとにお前ホモじゃねえの」「違うよ」「じゃあ何でなめられるんだよ」「知んねえよだから」「俺以外のやつのも…」「やってねえから」「じゃあやれって言われたら」「やんねえよ」「それってさー…」「うるせえな、何だよ」「俺のこと好きなんじゃん?」「…お前、ほんと一回死んで」


ともかく俺は、功介ので最初に、精液というものを知ったのだ。本当の精液、生きた完全な精子が泳ぐ精液。


俺は功介に背を向けて腰をかがめて化学準備室の机の端に据えてあるくびの長い蛇口をひねった。長いこと薬剤に晒されて変色した広いシンクにぱっと星形に水飛沫が飛び散る。手で掬う。そして漱ぐ。水が吐き出された排水溝を見ないように見ないようにする。ここは化学準備室だったらヨードくらいあるだろうか?風俗嬢のようにさっきまで使っていた場所を殺菌したら功介はどんな顔をするだろう。功介がまだ名残惜しいのか俺の腹に手を沿わせて身体を寄せてそれから顔を寄せてそれから唇を寄せてくる。抱かれるということを考える。それは温かい人間のかたち、それが俺に寄り添っているだけだとも思う。流されるように目を閉じるとこじ開けられて舌でなめられる。さっき3つに分かれたうちのどれだ。手がなんだかうまいこと俺のボトムをなぜる。ダメかも、いやいけるかも、いや時間がない、いやここで撥ね付けたら功介はどう思うだろう、いやそれより俺は男とできるのか、俺の精液は功介にとって何なんだ、功介がもう一度深く唾液と俺の中を盗む、いやいやいやいやいやいや「…嫌だ」「あ、そう」物わかりのいい功介はゆっくりとまなざしを外しゆっくりと身体を遠ざけた。「嫌だ、俺、こんなの嫌で、嫌で嫌で嫌で、」「じゃあもうやらないから」


俺だって人と交われないわけではない。むしろ男でも功介とできるかもしれない。騙されてなめさせられてそれが普通になったみたいに、功介が騙してくれればあるいは。これが性欲だと何かをそうだと錯覚させてくれれば。


「そろそろ行くぞ」
俺たちの貧しい睦みも貧しい諍いもいずれも何もなかったような顔をして功介が言う。誘ったときみたいに、眼だけで退室をうながしながら背を向けて廊下へ向かって歩き出す。しかし俺は功介に背を向けて窓へ駆け寄る。何だか冷静に焦っている。ト音記号のかたちをしたにぶく光る金属の鍵をがちゃがちゃと半回転させるガラスにぺったり掌をつけてその次に桟をひっかいて大きな窓を開け放つ。校庭に面した窓。体育の授業中の体操着の生徒たち。空を見る。踵を踏んだ上履きを蹴り上げて、手すりを乗り越える。
「功介!」
身体は半分窓からはみ出している。ぐらぐらとして不安定だ。半分廊下に出た功介がゆっくりとこちらを振り向いて、功介ににっと微笑んだまま背中から落ちて行く俺を認めると、嬉しくなるくらい驚いて眼を瞠った。
「! ちあ…」
「……」
「……」

空の高いところにいるみたいな風が吹いている。俺は眼をなかなか開けられない。半分の半分だけ瞼を上げると、突風がますます強くなる。髪の毛がなぶられてぐちゃぐちゃになる。脊髄になんども寒気が走る。功介のことを思い浮かべる。功介、功介の精液、俺、俺の精液、こんなことばかり考えてるなんて変態か。もうやめよう。何も考えない。なめない。のまない。俺たちは抱き合わない。

騙されない。





俺は涙のうすくたまった眼を伏せて自慰の後の嫌悪感に率先して苛まれる。それで自分には欠けた何かを、功介に求めているのだ。







「なあちょっと、千昭」

廊下で功介のねばついた光のたまった眼が、次サボるぞと言っている。



海の粥














'06.9.3-9.29
何で千昭が化学準備室に来てたかの説明が本編になかったので、まあこういうことに…