「マリックおめえ生理なんかー?」ゲラゲラ。 「アホー風邪気味なんじゃ。黙っとけ」ゲラゲラ。 真陸の星型に弾けたようなケロイドの跡を犬歯で噛むと途端に虚を衝かれた真陸の身体中の筋肉は強ばって眼球だけ動かして俺を見ようとする。けれど傷は頸にあるので俺の表情や心理は真陸にはのぞかれずに済む。真陸をリクライニングしないシートへ押しつけた車内は狭い。男二人が折り重なれるような余裕はとてもなく助手席から乗り出して腰をひねった俺は背中にハンドルの円の輪郭を感じる。真陸の風化してなお生々しい傷の皮下には静脈と動脈と神経が通っていて全身に繋がるその道筋が俺には道に落ちてる小石をひょいと拾うくらい簡単に分かる。何年も前の皮膚の熱さと痛みがその傷跡にメモリーされているのを俺は知っている。 傷跡はスイッチだ。 「家族を愛してるって言えんのやったら練習させたる。《四郎を愛してる》これ、言ってみ」 「は?」 「簡単やろ」 「無理」 「《俺は奈津川四郎を愛してる》、ほれ」 「無理やって」 「何で言えんのや」 俺はほとんど真陸の耳をぬらすつもりで優しく湿った声で訊いてやる。真陸の声はどんどんか細く弱々しくなっているしがたがたとその歯の根が鳴っている。俺はわき上がる哀れだという感情を自分の横隔膜から下へ押しつけるのに苦労する。母親の全ての憎しみや苛立ちや捩じれた異常な愛情の屑籠になっていた中学二年の真陸。母親のあらゆる鬱屈や厭世やあるいは揮発しそこなったタチの悪いメチルアルコールのたぐいがこの四半世紀ものあいだ真陸貴宏というゴミ箱に堆積し真陸を苛み今なおそれは真陸の外のどこへも廃棄されない。まったく、まったく馬鹿げた話だ。俺の腕の包帯と真陸のそれとじゃまったく意味が違うってわけだ。俺は頸に埋めた顔を起こし真正面から向かい合い熱をはかるように掌でひたいにふれ真陸の寄せる眉の下の眼をながめる。アトロピンを点眼してやったような瞳孔だ。散瞳していてくろぐろと吸い込まれそうだ。穴のあいた眼で見る真陸の世界は眩しいだろうか? 暗いだろうか? …視線の糸を搦めとるように眼をあわせると真陸はそれをほどくように下方へそらし、ついには苦悩にうちひしがれて瞼をおろした。ちくちくと瞼を縁取るまつげはたぶん15年前とそう変わらないだろう。 「お前が愛されんかったからってそれがこの世に存在せんなんて思うな」 憧れるくらいしたらええんや。絶望した真陸に俺の言葉は酷もとい無力だろうか?真陸が拒むように瞼を閉じたので俺は好き勝手することにする。気遣いのない力で頸の裏へ掌を固定してもう一方の掌で顎をひっつかんで口接ける。精度の粗いキスだ。こんなキスを誰かにしたことがあっただろうか。真陸のくちびるが何か言いたそうにこころもち歪みながらひらく。あの後含嗽はしたものの(病院だからルゴールだってイソジンだってあった)今朝のあの上等なスーツ君の皮膚と皮下組織と外頸静脈の二酸化炭素まみれのヘモグロビンフレーバーがまだ残ってる。オエ、俺とお前のファーストキスが血腥かったらごめんねマリック。くちびるをくちびるでやわく噛むと真陸がぶる、と戦慄してくちびるをひらいて舌をさしだす。腕を俺の後ろへまわして頭をかかえる。そうそう。俺は静かな気持ちで真陸にゆっくりと時間の止まったようなキスを与える。愛されない人間に愛を与える神になった気分だ。俺は疲れて消耗してるとき、つまり今みたいなとき大抵人間の体温を感じてしまうだけで発情しそうなくらいなのだが真陸相手にそれはない。こいつは友達だから、と俺は思う。そういうことにする。俺は真陸を前にして何かリビドーを感じたりはしてない自分に心底安心する。 俺が感じているとすればそれはたとえば今真陸の服を全て剥いてそのからだの傷を数え上げてやりたいというようなこと、俺のことを意味なく無理にでも愛していると言わせたいというようなこと、プール開きのあの快晴の太陽を覚えているか訊きたいというようなこと、そういうどうでもいいことばかりだ。 俺たちは15年前2人で膝をくっつけあってこの世の不条理について泣き喚くべきだっただろうか? そうしなくてよかったと俺はつくづく思う。今この密室で二人きりで頬につたわる涙をまじらせあうことなどもうできないにしても、ここには少しのあいだあの頃の真陸と俺の亡霊が存在するのだ。俺たちが再会したことで俺たちの飼い殺していた亡霊はきっと、二人で手をつないで眠りにつく。 |