赤いひかり/眩惑

救急車の音がけたたましく病室の中の四枚の鼓膜にドップラー効果を及ぼしながら病棟に面する通りを駆け抜けて行く。午の光がカーテン越しに入って病室は明るいが外よりは少しだけおぐらい。朝晩関係なく救急車は通りを往来し、病室の静かなお昏さを数秒で粉々に壊してから、その修復にどれだけの時間がかかるのかも弁えず知らぬ顔で去って行くのだった。お昏い病室のお昏い四隅それぞれに色違いの粉々になったものが溜まっては薄く積もっているような気がする。


「今日俺が来てから4回目ですね」
「一日何度でも通るよ」
「病院ですもんね」
「病院だからね」
「数えたことはありますか」
「何を」
「…」
「…そんなに暇じゃないよ」
「暇だから俺を呼んだんじゃ」
「違う」


違う、と部長は言った。面会をゆるされた時間より三十分早くここへ来てずっと学校へ行かずにこの病室に居座っている。先ほどのように静かな水面に風にあおられてあらわれた波紋のような、ふとした小さなきっかけで会話が少し続くこともあったが大半は沈黙と表情の無い空気があたりを支配していた。俺は苦しくてたまらなくなっていた。自分が何故ここへ来たのか判らなかったし部長が何故俺を呼んだのかも判らなかった、挙げ句部長も何故俺がここにいるのか判らないような顔をずっとしていて居心地はとても良いとは言えなかった。ただ病室のお昏さと静けさと空調の涼しさだけは教室と違って心地よかった。部長も何故ここへ来たのか判らなかったのだろうか、今苦しくてたまらないのだろうか。部長は果たしてこんな毎日を送っているのか、それが疑わしかった。


(こんなところに居たら出られなくなるんじゃないか?)


「特に夜がひどいね」
「夜ですか」
「救急車」
「…ああ、」
「病人と怪我人と血と臓器が幾つも」
「運ばれて」
「そう、」


(けたたましい音と幾筋かの赤い光とが過ぎって)


「部長」
「何」



(眠れなくて、寝返りを繰り返して、テニスのことと真田のことを考えて)


「屋上に行きませんか」
「いきなりだね」


気が進まないなあと言いながらもするっと部長の身体は起きだして鑞のような色の足をベッドから垂らしてスリッパを履き俺に上着とって、と言った。俺が自分のブレザーを脱いで肩に掛けると、驚いたような顔をしたけれど何も言わず、大事そうに着た。この人はこういう仕草が、いやにうまい。


「独りで行ったことありますか、屋上」
「そりゃあね、うん」
「独りでですよ」
「ああ」
「俺なら無理だ」
「どうして」
「それは言いません」
「おかしなことを言うね」


それは言いません。それは言えません。一体部長は俺や少なくとも他のレギュラーがどんな顔をして部長抜きの屋上にいるのか知っているのだろうか。俺たちは他校にないフラストレーションとストレスと不満を常に抱えている。真田副部長が幾ら俺たちを殴ったところで痛いだけで血が流れるだけでとにもかくにもこの学校には部長が、いない、この状態は決して回避されない。屋上からは数学のノート上の小数点のように小さくはあったが学校が見えるのだった。辛い大きさだ。遠いけれど見えてしまう。俺なら正視できないだろう。俺と同じ速さで階段を上がる脚に、また一方で時折咳き込む語尾に、きっと真田副部長ならば騙されるのだろう、でも俺は騙されない。

褪せたベンチに腰掛けると鉄の匂いがした。空は明るくまぶしくて俺は病室のお昏さが懐かしかった。(懐かしかった?)南中した後の太陽はもう何年もそうしているかのように古びて午後の角度に傾いていた。


「じゃあ何、俺が独りで行けないと思って連れてきてくれたの」
「怒らないでください」
「怒ってないよ」
「眼がこわいっす」
「ちがう、これは……」
「…」
「みじめで…みじめなんていうといけないのかもしれないけど」
「どうしようもなく?」
「そう、どうしようもなく」
「俺が憎いでしょう」
「赤也が憎いよ、」
「部活の皆のことが憎いでしょう」
「柳も丸井も桑原も仁王も柳生も誰も彼も」
「でも真田副部長が一番憎い」
「俺は真田のことが一番憎い」


背を向けて俯いて、何もかもが憎い憎いと言い続ける部長はもしかしたら博愛主義者なのではないかと思った。布一枚下の上半身の背骨はきっと痩せて くっきりと尖っているのだろうと思った。
できることならば一番憎まれたかった自分が居てでも部長に憎まれるために何をしたらいいのかわからない。天井の無い屋上に立ち尽くした俺と部長はこれ以上距離をとることも縮めることもしない。

遠くから例のドップラー効果が少しずつ近づいてきて段々と音は耳をふさぎたくなるほどまで大きくなる。空気が粉々に散って、息が止まる。鼓膜がびりびりとふるえて耳の中がざわつきやがて麻痺したようにきいんと鋭く音叉が鳴る。屋上に天井がないなどと思うのは間違いで頭上には俺たちが生涯をかけてきっと抜け出すことのできない青い空が広がっている、あれは残酷な天井だ。救急車はあの単調な警報を繰り返し繰り返し繰り返すと何の兆しもなく、急に音を止めた。遠ざかって行く警報しか知らなかったせいでその音の切りかたは随分乱暴に聞こえた。担架が搬入される音がかすかに聞こえる。日差しはのどかだ。部長も元気だ。警報など要らなかった。消えた音が耳朶へまだ残っている。空気の波が揺れて音が揺さぶられる。いつまでも耳朶へ残る音に目眩を憶えて我知らず耳へ手をやって塞いでいた。もう遅い。赤い光が閉じない瞼の裏でもちかちかとする。俺のブレザーを着た部長がこちらへ向き直って俺へ呼びかけて何か言っているが聞こえない。耳から手のひらを離せないまま瞠目して部長を見ていると涙が眼球と赤く点滅する瞼の間隙を満たした。周囲の音がぼんやりと曇って、聞こえないのは自分のせいだ、ただ部長は俺の耳へあてる手も取り去ろうともしないのだ。螺旋を描いてゆっくりと落ちていくような空耳とめまいがひどい。

これからもずっとここへ留まっているのは部長の方だ。俺はなんだかんだ言って少なくともあの古びた太陽が地平へ落ちればここから去ってしまう。だのにおかしなことを俺は言った。からからにかわいた喉で、行かないで、と、言った。
















20040528/衍田トカドップラ−効果の原理がよく判らぬまま書く