受容器の砦







いつものように廊下で病室前に掛かった名札を確認した。


二度のノックの後、
「どうぞ」
その後、
「真田だ」
このやりとりは既に慣れたものになっていたが、今日に限ってはそこからの勝手が違った。ドアノブを捻り、病室へ踏み入るなり、
「真田?良かった、好いところへ、」
と幾らか逼迫したかのように聞こえる声調で言われた。何かと身構えたのも束の間、
「目薬を点してくれないか」
と頼まれて、詰めていた息を吐いた。これが初めてのことではない。一応は自力で四苦八苦したらしい跡が頬に残っている。涙の流れたように濡れた片頬をみとめて何だか気まずくなって嘆息した。
「今、溜め息ついただろう」
「…違う」
「点してくれるか」
「独りでできるだろう」
「出来ないこともないな」
嘯く声が如何にも愉快気で調子が狂う。
「お前は、」
「こんなこと頼めるのは真田だけだよ」
窘めると途端に殺し文句が出る。真田は、自分が幸村の特別であることを知っているが、今現在の真田にとって、それが自分にとって何を意味するかを知っているかどうかは別問題で、それは取りも直さず真田の方から幸村へどうこうというベクトルは無きに等しいということを示していた。握らされた点眼薬の壜の色は不自然なコバルトブルーをしていた。壜を眺めて眉を顰めていると、含んだような目配せをされた。言葉で言わずとも解れ、と言うのか。コートにいるときもそうだった。入院しただけで人が変わるとも思えないから、思えば当然のことかもしれないが、一対一で誰に見られる訳でも聞かれる訳でもない、そんなときに何も言葉を発さないというのは何だか気に食わない、と真田は自らを棚に上げてくさくさした。起こしていた上体をまた仰臥し直して幸村は天井を見た。

そうだそれが幸村のこの場所での自然体だった。

天井に何かうつくしいものでもあるかのようにうっとりと真上の遠くを見るでもなく見ている。公共施設の壁に特有の、天井の不規則な模様でも見ているのかも知れない、そしてもうその配置など覚えてしまったかもしれない、それとも天井も屋上も突き破った空という天蓋まで思いは進んでいるのかもしれない。何も分からないのだし特に尋ねる必要もないように思われた。真田はまた小さく溜め息を吐いてから、観念して幸村の顔のすぐ横に腰かけた。上半身が幸村の顔を覆うようになる。蛍光灯や窓からの光を遮って翳る幸村の顔は、目蓋がもう下ろされていた。

眼を瞑っていたのでは目薬など点せない。恣意だか意図だかさっぱり分からぬものが含まれる幸村の一挙一動に振り回されていたのでは堪らない。これは無視ではない、気づかなかっただけだと自分に言いきかせながら口接けを待つような瞼に口唇ではなく不本意な左手の指を這わせる。右手で点眼薬を掲げる。白い顔の上で手の影が揺れる。無抵抗だった瞼に緊張が走って、うっすら開きかけた眼がぎゅっと閉じられる。点眼薬は無惨に目尻へ流れ、その支流がいくつか枝分かれして流れ落ちて行く。自分の指はどうすることもできず右往左往する、思わず顔を近づけて、舐めた。
「何す、」
幸村が何か言うが構わずもっと舐める。蟀谷から水の跡をなぞって目尻の窪みまで辿り着く。白い喉が少し仰け反って痩せた顎がかぶさった手の平の下で上を向いた。かと思えば幸村は少し汗ばんだ手で抱きしめるでもなく真田の骨張った肩甲骨のあたりをぺたぺたと触る。舌が瞼を這うと、薄皮一枚隔てて眼球が少し動いた。口接けた細い睫毛が、点眼薬だか唾液だか涙だかで濡れている。涙の訳がない、流す理由がないと思いながら、顔を暫し離すと、白い肌は紅潮することもなく、やはり青い静脈だけが透けて見える。幸村の意図を考えることなく衝動が襲ったこの何秒間かがもう急に信じられない、誰かが吐いた嘘のようだった。
「どんな味がした?」
眼をぱちぱちと瞬きながら飄々と幸村が尋ねるが答えられなかった。点眼薬はただ塩の味がした。生理食塩水の味だ。涙の味だった。言える訳がなかった。
「もう一度点してくれないか」
今度こそは大丈夫だという幸村の言葉通り、今度はすぐに片が付いた。瞼は下りずにずっと視線の先の真田以外の何かを見ていた。曇りのない水晶体が真田で翳ると、瞳孔が光を求めてきゅっと開いたがやはり瞼は微動だにしなかった。ただまだ濡れた睫毛が震えたように見えた。二滴落とすがまだ瞼を閉じないのでもう一滴、もう一滴、と落としていく。飽和して目から溢れてしまった水は角膜を流れてまた、さっきつくったばかりの枯れた水路になった水の跡を忠実に伝っていった。妙な気がして手を止める。
「幸村!」
語気を強めて呼ぶ。点眼薬はもう点さないのにずっと顔を伝う流れが止まらない。目を開いたまま泣く人間など初めて見た。大抵の人間は、顔を伏せるか、或いは目をぎゅっと瞑るだろう。幸村はその逆だった。目を瞠ったまま、表情も崩さない。
「真田、真田…」
幸村が呟くように呼ぶ。
「みっともないだろう」
幸村の泣き方は、"みっともない"とは真に逆だった。それなら涙が出たらそこで終わりとばかりに、顔を歪めて涙を我慢する方がよっぽどみっともないように思えた。

「真田は眠りながら泣いたことがある?きっと無いだろうな、眠りながら泣くとね、耳に涙が入ってくるんだ、そして涙が溜まると、冷たくって目覚めてしまう。勿論おれが子どもの頃のはなしだ、今じゃない、そんな顔するなよ真田、」

テニスの話をするときのように淡々と、丁寧に、目覚めてしまったとき夜中の病院がどれだけ怖かったか、恐ろしかったか、そういうことを幸村は話した。自分が今どんな顔をしてるかなんて分からなかった。知る術もなかった。真田、とまた呼んで、ティッシュを取ってよ、と照れたように言った。箱ごと渡すべきなのだろうティッシュを一枚だけ抜き取って、幸村の顔の右半分を覆った。目とそこから流れた涙の水分を吸って、そのかたちを拓本するようになぞった、かと思うともっと水を吸ってかたちは見る間に暈やけた。一瞬のことだった。そのまま顔をぬぐいながら目を露出させる。ベッドの端から持て余したようにぶら下がって揺れていた幸村の腕は、耳へ指を入れると真田の腕を頼りなく掴んだ。ティッシュで拭うと、濡れた耳朶が妙に柔く、耳殻の軟骨はあたりまえに硬かった。ずっと傾いたままの重力を感じている幸村の三半規管を思った。指は奥までは届かない。涙が冷えて幸村を起こす「そこ」までは入って行けない。結局は幸村に寄り添うのは周りの人間が思うよりずっと難しいことだ。

「冷たい」
と口に出ていた。しまったと思った。
「…お前も今目が覚めただろう、僕は病人だ」

もう帰れと言わんばかりの言い草に為す術もない、ただ、その瞳をじっと見ていると、ずっと分からなかったものの、そんな顔をするなとまで言われた自分の顔が見えてくるような気がして顔を憚ることなく覗き込んだ。幸村は拒むように優しく瞼をおろした。どうしようもなくて、取り敢えず熱い口唇に自分のを押し付け、口接けるしかできることはなかった。
















































040105 初出
041009 リサイクル
多少書き直しました。削ったところが多い。まだ病名がはっきりしていなかった頃のものです。GBSは眼がかすんだりするらしいよ…いや…何でもない…。受容器えろを書こうとして書いたものなのでえろが読みたい人は穴を違う穴だと思って読めば読めないこともない。(ような気がする)漢字が難しくて読み返したら自分でつっかかった。何てことだ。