最近神経がささくれだってよく眠れないことが多い。不眠症のようだと事務所に訴えたところ診察も処方箋もなしに致死量を超えた睡眠薬を瓶ごと渡してきて、どうもこれは死ねるときに死んだ方がいいという誰かからの忠告かもしれないと何故かちょっと思って、でも結局それは意識から拭ったことにして、閉め出した。

 進が夜、俺のところへやってきた。ぶらりと散歩をするような男ではない。新月の闇夜のロードワークは額に滲んで拭われた汗の跡でそれと分かる。チェーンロックを外して進を迎え入れるとそのまま鍵をかけてしまいたくなった。
「起きていたのか、」
「ああ」
起きていた。眠れずに今夜は起きて爪をやすりで削っていた。先日の部活の練習で割れた足の拇ゆびの爪を切り、不格好なかたちをととのえていた。やすりの刃へこぼれる爪の白い粉を屑籠へ落としていたときに丁度進が訪れたので、片足だけ靴下を履かずズボンの裾を捲り上げているという不自然な格好で出迎えることになった。それを一瞥してもするだけで進は何も言わない。不安になる。不安になって我知らず饒舌になる。
「…起きてたよ、なんか寝つけなくて、昨日の練習ンとき気づかなかったんだけど足の爪割れてたみたいで研いでた、一応、爪の先まで見てくれが売りもんだから」
ああ今言わなくていい一言を何か俺はつけ加えやしなかったか。いつも反芻ばかりしてはみぞおちに落ちていく後悔の念をなぞる。嘆息して目を伏せると進は顔を覗き込む、それを分かっていてそろそろと息を吐く。
「眠れないのか」
「…薬を」
チェストの方へ視線を向けて、白い錠剤のざらざら入った茶色いガラス瓶を眼で指した。進が視線をたどって手の中に収まるほどの瓶を見つけるのを確認する。
「もらったんだけど余計不安になって服んでない」
「服むな」
「…分かってる」
さっきの動作と同じ速さでそろそろと進の眼を盗み見るとゆくりなくもかちりとあって動けなくなった。そもそも「盗み」見る必要もないのに、どうかしている。進の眼の光が俺を固定して、言うことを聞かせる。
「分かってる、」
知らず声が上ずる。分かってると知ったような口を利くがその実、声は弱々しくおまけに溜め息が洩れた。のろのろと外出の準備をする。幾ら夜中でもキャップくらいはかぶる。夜中に出歩くこと自体を事務所からは禁じられている。進がずっとこちらを見ている。心配そうに辛そうに厳しい眼をしているが言わないんだからほんとうのところはどうなのか分からない。実際、俺が深読みしすぎているのかもしれない。割れたつめから剥き出した赤い皮膚はたった数平方mmしかないはずなのに夜の風にひりひりとした。


夜の街へ走りに出るのは久しぶりだ。はだしにつっかけたスニーカーは進の履いているような走るためのものではなくクッションも「べろ」も申し訳ていどで薄っぺらい。そこが自分のようで気に入っていた。白いフォルムにふちどるように緑の線が走りブランドのロゴが入っている。シンプルでセンスが悪くなくて雑誌の撮影にもちょっと使ったことがあった。写真左端に「モデル私物」の註釈がつく。ファンからどこで買ったんですかァと訊かれることがあるという。訊いてどうするつもりなんだろう。俺とのお揃いを買うのだろうか。履くのだろうか。メンズしかなかったはずだ、それでも履くのだろうか。履いたって何も共有できないのにそれでも報われなくても追いかけるのだろうか。そういう執着心情熱を最近失いかけている。その矢先に眠れない夜に進の方から訪ねてきたりしてこういう心理状態を千々に乱れるというのだろうか、静かなのに胸の底が妙に熱く対流する。進を見るともう俺を気遣う眼はしないが、先に歩く俺が振り向くとかかとを踏んでいるスニーカーに非難がましい眼でただ俺の名前だけを呼んだ。
「桜庭」
靴からはみ出たかかとが夜のつめたいアスファルトに当たる気持ちよさを俺は知ってる。進は知らない。何も共有しないがこんなに近い。近いのに遠い。

「やっぱ走らなきゃだめかなー」
歩きながら話しかける。闇に進のパーカが見える。
「無論だ」
「おれ散歩の方がいいな」
「眠れないのだったら走らなければ中途半端に疲れるだけだ」
「うわ酷、」
大げさに横隔膜を揺らして笑うと進が不審そうに見た。見抜かれている。進が走り出す。進と出会った頃はこんな笑い方はしていなかった。自分でも分かっている。俺も進に続く。


 進のペースに合わせると途端に息が上がる。進は俺のために手加減などしない。景色の流れるのが速い。闇に住宅街の白い壁が続き黒い舗道に白い道路標示に赤い信号、進と俺は信号機に邪魔されてペースを下げ、止まった。遠くで暴走車がふかすような音が聞こえるが、俺と進がいる一帯はしんとして静かで、遠くの音が嘘のようだ。車が一台も通らないのに進は赤を見て止まったままで走り出そうとしないので俺もそれに倣った。どくどくと普段聞こえない心地よい脈が打つ。真夜中から朝方まで、誰も通らなくてもこの信号はひとりきりで赤になり青になり黄色になりまた赤く光るのだろうと思うと胸のあたりがぐずぐずとした。随分と長い赤が点って、進は一度こちらへ視線を向けたがすぐにまた赤を見つめだした。何となく間が保たなくて、踏んでいた踵を履きなおした。

(…進、おれは、)
話しかけようとして赤がふいに青に変わった。眼を一度ぎゅっと瞑る。三秒数えて瞼を上げると一瞬ピントが狂って、闇の中で青い歩行者信号の輪郭が暈ける。進は俺をおいて走り出し、もう横断歩道を渡り終えるところだった。一瞬でもおいて行かれたことを知ってじりじりと焦る。何しろ脚が速いから、おいて行かれるのが一瞬だって油断ができない。横断歩道の白い線を選んでぞんざいに踏んで走る。進は待たないし俺も待てとも言わない。月の見えない夜に、とうとう一言も交わすことなくぐるぐると何キロか走り続け、40分経ったところで部屋へ帰ってきてしまった。

チェストを見るとまだそこに茶色い小瓶がうずくまっている。疲れてふらふらするし汗でべとべとなのにシャワーを浴びる気にもなれなくてベッドに雪崩れ込んだ。途中で別れれば良かったのに何故か進はまた俺の部屋に上がって勝手知ったる冷蔵庫からスポーツドリンクを取りだして俺に注いでくれた。眠れそうか、と尋ねるので驚いて見上げると困ったような眼をしていた。喉を通ったつめたい甘い水が胃の壁を流れる道筋を身体の中に感じた。コップを返すと残りを進が飲み干した。そこで嬉しさの剰り抱擁でもすれば良かったのだろうけど、俺は結局疲れに疲れて、進が一言かけて帰るのも待たずにぶっ倒れてしまった。


八時間ほど眠って起きて、チェストを見ると睡眠薬が無い。恐る恐る覗くと磨いた爪の欠片だけが捨てられていた屑籠の中に茶色いガラスの破片が粉々に砕かれたのが多少見えた。中の錠剤はどこへやったのだろう。俺は無惨に始末された俺の不眠の行方をわざと無視することした。














進桜っていうか最近もう周囲が退くくらい親友なのが好きなんです。